昭和40年6月5日 夜の御理解 ■
信心は釘付けではないと、信心は釘付けではないのである。その時、そのこと、その事を通して、信心にならせていただくということが、信心がいつも、動いておる、活動しておる、進んでおるという事に私はなると思うです。
その時、その、その事、その事を通して信心にならせてもらう。その時、その事、どういう風にあることが、どういう風に、いー、行じさせて頂くことが、んー、最高の、おー、信心を身に付けていく事ができるか、自分の物にしていくことができるかということである。
特にみなさん、あのー、その時、その事を通してです、信心が自分の事になっていく事の為に、信心の稽古をされなければならん。信心を自分の物にするために、ね。
私、今日あの、夕べから体がちょっとおかしいなあと思ったら、今朝はあの、どっこい足が動かんとです。もう今朝の御祈念、ごそごそ這うて御結界につかせて頂くような状態であった。して、急激でしたからもう(?)にはもう体が、非常にきつくなってから気分が悪くなるです。 ですから今日は、楽室、二階にも上がられませんもんですから、楽室に床とらせて、楽室で休ませてもらい、もう移り変わりみなさんが、そのー、マッサージを、体全身のマッサージをしてくださったり、えー、頂いたんですけれども、その中でです、いわゆるその時、その事の中にです、信心を分からせていただこうという願いはいつも持っておるわけです。
ね、ですからやはりそういうような中にも、おー、信心での、おー、思い方とか、あー、考え方というようなものがあるわけですね。
次々いろいろと、ああ、まあ、お知らせを頂きましたり、思わせていただいたことでございますけど、その中にです、んー、休んでいる、このー、足腰もんでもらっておりますもんですから、気分がいいんですね。もう本当に体がこう、うー、全然不自由になってしまう、たもんでなからなければ、こりゃもう、私でなからなければ分からないと思うようにその、気持ちがいいんです。もう何ともかんともいうほどに有り難いですね、さすって頂ける。
もう(?)その、こたえないもんですから、汗ぶるぶるなんですよ。いわゆるその、(?)、気持ちの良い事はもう私はもう何ともかんとも言えんほどに、気持ちがいい。本当にこう、
本当の極楽じゃろうかと言うごと気持ちがいい。
して本当、やっぱ椛目のこういうような、あー、事の中からです、普通では味わう事の出来ない、やはり極楽があるということを感じるんですけれども。
★その中にですね、夢とも、おー、御神眼とも分からないですけれども頂く事なんですけれども、ちょうどあの、んー、冬柿の上に柿の木が、こう、冬柿前に、剪定してあって横に広がるようにこう、きれいにしてある柿の木を頂くですね。下からちぎられるように、ね、下からこう枝が出て、きれいにしてある。
ところがです、その、あー、大きなその柿の木の下にです、もうその枝の下一杯に、あの、(?)ね、あのお弁当作るときに包むでしょう。あれは(?)の一つ葉と申しますね。あの広葉がです、もう一杯いわゆるこの群生しとる。一杯群れで、あの、こういう、かっ、ひとかたまりになってですね、その、広葉が生えてるんですよ。柿の木の下にですね。
それで私はその、思っておる事なんですね。こりゃ、こげんしたふうに(しの葉?)がいっぱいあったんじゃ、こりゃ柿の木の、柿の、いわ、(祝い舟?)をすいてしまうじゃないだろうかと私がこう思いおるです。
そしたらです。誰かがですね、その柿の木に、私共子供の時に(?)でもそんなこといたしませんけれども、正月には、正月の14日でしたかね、もぐら打ち、もぐら打ちというのを致しましたです。笹でこう、あの、モグラのようなものを先に作ってですね、朝早う起きてからその、大地をたたいて歩くわけなんです。ね。
14日のもぐら打ちっち言ってから、大きな声で言いながらですね、もうその(?)を言えば、打って回るです。(?)、14日はもぐら打ちと言うて、その、打って回るです。今頃あんな事致しませんですね。そしてもう、明け方にはあがらせてもろうて、あれば打ちまくると自分方の庭にそのもぐらがのってこんちゅうわけなんですね。それでその、私共が子供の時にはそういうことを致しましたもんですけれども、そのもぐら打ちを致しました、あのその、いわゆる、竹で作ったそれをですね、丸い果物の、に、枝にかけておくと、その丸い果物が来年はやわなるというその、んー、言い伝えがあるわけです。
ですからその、もぐら打ち打ったその後は、二つにこう折っといてから、柿の木やみかんの木やら、いろんなその丸い果物に、その、かけておくです。ああ、あんな事、噂です。
私の家内が(?)その、丸い果物にですね、あのもぐら打ちがかけち、かけてございましたよ。それは来年良くなるようにということであった。
★それからです、私はいろいろ、また考えさせて頂いたんですね。そしたら今度はっきり御神眼に頂くんですね。どういうような事だろうかと( 録音不良 )栄四郎がですね、鼻をつまんでるんです、こうやって。自分で鼻をつまんでるんです。そしてその前の方をここを押さえておるわけ。前の方を押さえて鼻をつまんでですね、おるところを頂くんですよ。
鼻をつまんでおるということは匂いをかがないという事でしょうね。前を押さえるということは、もう小便に行きたいばってんが(?)ような感じなんです。栄城、栄える城と書いてある。ね、それから私はいろいろ感じさせて頂いて、ああ、そういうことばいのと、私は思うた。
ね、柿のお知らせというのはね、これはまあ、(寄り道を?)知らないけれども誰でもが持っておる、その、まあめぐりと言やあめぐり、汚い物だと言やあ汚い物だという意味なんです。柿のお知らせは。
その例えば柿がです、その根元に、いー、一つ葉です、平葉がいっぱい群生しておる。ということは、平葉のお知らせは、元気な心でおかげを頂いていくうちにです、必ずままになる受け物だと、あの、おにぎりならおにぎりの包みになるというお知らせなんです。
してみると、なるほどです、なるほど、柿は今年はならんかもしれん。私がその、いうなら(どもうた?)ように、こげん柿の木の根元に広葉が植わったんじゃ、柿の実も吸い取ってしまうじゃろう。いうようにですね、今年はおそらく柿はならないだろう。けれどもお互いがままになるおかげを頂くためにです、元気な心で、ね、今年はならんでも良いからです、ね、いわば、大地を叩きおったと、いわゆる、(?)だり(?)たり14日のもぐら(?)ですと、そのもぐらをもぐら(?)を持って回っておる、その、おー、もぐらをです、丸い果物にかけておくとなる来年は良くなるという祈りをもってです、大地を叩くということはです、御粗末御無礼ということだろう。
ね、そういう大地を叩くようなということ。ね、母の、大地は、母体とも一緒になる、その、母体がです、母を、おー、苦しめるような信心を改めさせて頂いてです、ね、そこんところを、取り除かせて頂いてです、いうなら、大地にひれ伏した信心をさせて頂いてです、そのことを祈りとして、その柿の木になら果物に、そのもぐらに(?)ていくとです、来年はいわゆる丸い果物がなるといわれておるように、来年になる事を祈らせてもらい、今年はです、ならんでもいいというのである。
ね、それを、(?)神様のお知らせを持って、ああ、もし、あー、言うとです、栄四郎がです、鼻をつまんでおる、前のところを押さえておる。それこそ匂いもかがんぞと。
なら例えば酒好きの人達がです、お酒ば、その、やめたといたしましょうか。ね、本気でいっちょ、まあ、酒をやめようと、もう匂いでもかぐもんじゃなかと、というようなです、いわば、あー、一つの、修行なんです。
ね、ところがです、ね、酒は飲まんばってん、なら匂いぐらいかぐと違うからというて、酒屋の前ば通ろうとするところにです、ね、やはり誘惑が、もうついつい引っこ抜いてしまうわけなんです。もう飲まんぞという信心が必要だということだから。ね。
周りの者せいでおるということはです、ね、小便という事は大便、ここでは、御結界を小便所大便所とこう仰る。小便所大便所がそろうた御結界、御広前にならなければ本当の繁盛はないと仰る。小便どころっち、小さいもよおし、おかげいただいとるじゃろう、いうならまあ、目先のおかげという事だろう。
ね、そういうようなおかげなんかがです、頂きたいけれども、やはり辛抱しとく。前にも(?)とくことは、私は、障子に一重をもって辛抱しとるということであろうと私は思うと。
ね。
今年は皆さんがです、ね、御造営御造営。おかげを頂きまして昨日遅く、うー、業者の方の、建築の方の決定を言うおかげを頂きました。もうそれはそれは、あの雰囲気の中にです、もう本当に神様のおかげを頂かなければ、いや、神様が先頭に立ってござらなければできることじゃあないというようなです、もう、お話しにならんほど素晴らしいおかげになっとるです。
ね、その為皆さんがさんが一生懸命努力、そのおかげになっていく、その、このー、その、おかげの中に皆さん方から結局使えておられるなということを感じます。そういうおかげを頂きましてから、いわばまあ、そのー、業者の方の手にです、建築なら建築という事が渡った。いよいよその建築がなされなければならないという事になりました。
ためにです、私共はもう今年はぜ、おかげは自分ところのことなんか問題じゃあないという信心なんだ。ね、自分たちの家が立ち行くということの頃は、ね、無事に立ち行きを願うていかなければなりません。けれども、柿の木的なです、柿の実的なおかげなんかはもう金輪際、今年はいりませんという年じゃいかんということです。(?)いっぱいです。
ね、お互いが一人一人でも、その、おー、ままになるおかげが頂けれる受け物を作る事のために、焦点を置きという精進しなければならないということである。今年はです、そのこと、ね、その事をもってです、信心を自分の物にしたいという祈りを熱願に燃えさせていただいて、おかげを頂かなければならん、と、私はその、お夢の中に感じた。
★次に頂きますことがです、三楽、四楽、五楽と頂きました。三、四、五です。ね、三楽ということはです、それは例えばその柿の木的な、それがおかげがほしいと言っておるようなものはどういうものなのか。それが願うちゃいけんのじゃない、しちゃあいけんのじゃない。ね、けれどもです、見てはいけんのであり、してはいけんのでありというようなことではないのだけれどもです、そういうようなものは問題にせずにです、そういうようなものは、か、一応神様にお供えしてです。
例えて申しますならば、私の、うー、ま、子供たちが、話し合いをしましてね、小遣いを、じ、全然使わないということです、御造営成就の、までは、その、誰が言うて聞かせたわけじゃあないけれどもこんな事が言えるのもその、あー、一番小さい子達に到るまでが、もう、(?)お金をくれと言うことも申しません。
ね、もう絶対それからテレビも見ません。もう、昼なんかだから、父なんかがそのー、時々見ておるとカシッて、もう、カシッ、栄四郎がですね、鍵ば持ってから学校に行っとるっちいう。(?)なんか(?)、なんかせやんけんでその、うー、竹刀ば、風で(?)っちから、学校からよそに電話あったそうですもん。
そしたら向こう、よそに(?)。テレビ(?)ここに持ってきとるけんで。(笑)
(?)持って、ま、その、持ってきとるけんで、その、テレビってん何でん(?)切ったっちゅうわけなんですね。もう本当にその、子供の世話焼きっつってからようしております。
ね、ここでその時だけしか(?)らないということに、(?)してるんですけれども、本当におかげでですね、そのおかげでその、いわば、まあ、三楽ということを、は、私はあー、この、ね、三楽という事はあの、自分の身を楽にしようとする楽のことだと思うんですね。それでもこの、見たり聞いたり(?)にも通じる事だと思うですね。見て楽をしようという、そういうのも三楽という。
おかげで勉強ができます。んなら、そんなら、そんなら、そう思い込んでおるらしいですからねですね、もう本当にあの、テレビのテの字も申しません。ね。もう本当に小遣いのこの字もそれこそ申しません。大人の方がそのために(?)いたします。ね、これがただの男、大人の私共であってみればです、まあ、どっかにあろうとこう思うんですよ、大人は大人としての、ね。
私、四楽という事は、どういうことじゃろうかと。ね、なるほど、ああしたいこうしたいもある。今年あれも思いたった、これもと、こう思うようなことはあるけれども、そういうようなことはです、今年はいわば、ご造営の御成就までは、それをなさぬぞというようなことじゃないだろうかと私は思うです。
これは私のまだ深い意味があるようにも思います。ね。5楽と言う事は娯楽です。ね。三楽四楽五楽ぐらいのことはお供えしてですたい、ね、そういうことに、(?)そのことをお供えして、勉強に精進しておるようにです、信心に精進させてもらい焦点をおかせてもらうというような、おかげが必要ではなかろうかと、なるほど、考え様ではそれは普通神様が喜んで下さるという、不自然なところがあるかもしれませんよね。小便にいきたいばってん押さえてからいかんというのだから。
ね、小便でも辛抱をするというくらいな信心なのだから。いうならば。私たちがああなりたい、こうなりたいという願いが日々の上に沢山あるけれども、けれどもそんな事はもうどうでもよいという事なのである。そして、もっと大きな願いのためにです、私共が信心の焦点をおかせて頂くという事。
今日一日私休ませて頂いているその事の中からです。私はそういう信心を教えて頂いた気がするです。
おかげを頂きまして五分が十分前です。おかげで足は又元どうりにもう本当にウソのように、また楽になっております。ね。いろいろ考えてみますとですたい、なにか知らんけれども、神様がちょっと一安心なさったそんな感じが致します。
昨日ですね、そういう話し合いがすんだと同時でした。私の手足ががたがたと崩れるように、動かぬようになりましたのですから。
ね。ですから私はどうでも良いと言う(?)ですから、そう気も心も浸かってないようだけれども、やはり疲れというものが、あー、その神様がです、神様がさせてくださる楽なのだ。いうならば。
しかも今日は一日中誰彼が交代でです、ね、汗ぶるぶるになって、その体を、しかもその痛いから痒いからというのじゃないです。もう押さえてもさすってもらっても、もうそれは本当に、もう(?)。そういう例えば極楽の中に今日は足が動かなかった。けれども、ほんの一時間前ばっかりから、こうしておかげを頂いて、(?)お風呂を頂いてから、おかげ頂いてから今日の御祈念を仕えたことでしたけれどもです、ね、神様がさせてくださる楽の中にです、今日そのような事を感じさせて頂いた、また、教えて頂いたとこう思うのです。
ね、楽は自分でしようと思うな。神様にさせていただけと仰る。ね、ここんところに徹底させて頂く信心が今年はいよいよ身に着いていかなければいかん、いよいよ自分のものにならなければならない。そんな気が致しますね。
おかげを頂きますように。